2000年10月11日水曜日

21世紀の総合商社

2000/10/11

総合商社とは簡単そうで複雑である。


通産省の貿易業態統計調査によれば日本に貿易業者は11843社あるという(平成5年度調査)。その大部分が中小業者であるが、その中で10社足らずの貿易業者が突出して大きく、総合商社と呼ばれている。

欧米にはない企業形態。欧米では貿易商社はあるが特定品目に特化するのが通常で、日本のように総合的にラーメンからミサイルまで取り扱うことはない。日本は欧米のまねをしながら経済発展をしてきたので欧米にない企業形態を持つ総合商社の存在というものに対して何となく居心地の悪い思いをしてきた。

それが総合商社に対する評価にも現れている。ある時は日本の経済発展の原動力、日本の秘密兵器と持ち上げられ手放しに評価されるときもあった。ある時には逆に商社は不要であるとか、斜陽であるとか、極端には「諸悪の根元」であるとか過小評価された。

時代の節目節目で総合商社への評価が変わった。評価にふれが大きかった。

21世紀を目前に控え、今日本は再び時代の節目にある。今再び総合商社というものに対する期待と不安が錯綜しているように思う。21世紀総合商社はどう生きて行くのか考えを述べたい。

商社の歴史

古い歴史をもつ商業(商社の基本形は普遍的で不滅)

商業とは古い歴史を持つ業種である。古くは縄文時代にすでに黒曜石の全国規模の交易が為されていたようだ。総合商社とは商業交易に従事する産業と考えれば決して特殊なものではない。歴史のある職業である。ちょっとやそっとの事でぐらぐらするようなものではない。

最も総合商社が現在のような総合的国際的な企業組織として大きく発展したのは明治以降である。長い歴史のある商人としての活動から大きな組織として動く「商社」への大きく変身していった。

商社変身の背景(社会のニーズへの対応)

その背景には社会のニーズがあった。近代社会へと脱皮を図る明治の日本社会と産業は彼らに足らないものをどん欲に商社という生まれて間もない国際企業に求めた。商社は賢明に彼らのニーズに応えるべく努力をして提供機能を増やしてきた。社会のニーズに応える形で商社は巨大化してきた。

戦後、日本は大きく変わったが、経済産業の発展の基本パターンは基本的にこの構図であった。

ある時は貴重な外貨を稼ぐために輸出の尖兵として、ある時は日本産業に欠乏していた技術と設備を海外から導入する代理店として、ある時は資源開発者として、非鉄資源原油の開発に邁進し、ある時は流通革命を担い、ある時は企業の海外進出のパートナーとして、そしていまITI革命の先方として日本の総合商社は活躍してきたのである。それらはすべて時代のニーズに応え、またニーズを先取りして提供機能を作り上げたものである。

プロダクツライフサイクル

製品にプロダクツライフサイクルがあるように商社の提供機能にも成長と衰退がある。

商社が時代時代で提供してきた機能も、その一つひとつを取り上げると、時代時代で浮き沈みがある。しかしそれら商社が提供してきたサービスと機能は、提供当時はたいへんなニーズがあったものであるが今やその意義を低めてしまったものが少なくない。

でも商社にはその提供機能が(提供能力が)形を変えて残っている。完全にはやめてしまったものはない。それら無数の「新規開発機能」は役割を終えた今でも総合商社に蓄積され積み重なっている。

それこそが日本の総合商社を世界でも類のないものとしている特徴に他ならない。機能の総合性である。

こういった外延一辺倒の拡張主義が「総花主義」とも批判された事も事実である。しかしこの総合性にこそ日本商社の特徴がある。世界の誰もまねのできない強み戸もなっている。

21世紀に向けて総合商社は?

結論的に行って21世紀は総合商社の時代になると思っている。商社は従来からの基盤をベースとしながら再び新たな機能を社会に提供し、変身し日本産業の新たな発展に寄与していく。さもなければ生き残る資格はない。

21世紀に商社が新たに提供していく機能とは何か?それはITであり、FTであり、LTであるのだ。

それに加えて商社の伝統的機能である「商業」へのニーズが再び高まるものと考える。今日yそうがすす店日本企業の戦略的資源の選択と集中がまだまだ進む。企業が今までインハウスでやっていた作業工程がどんどん外部化される時代になる。取引の発生であり企業間取引は幾何学的に増加する。それを仲介するのが賢い効率的な商社の仕事。21世紀は卸売業が再び脚光をあびる時代になる。機能のない介入は排除されて当然。競争力のある商社が安くて優れた仲介サービスを提供するのだ。無限のフロンティアがある。

なか向きされる仕事は中抜きされて当然。言いたいことは取引の絶対量、トータルのパイが増えることである。

すべての産業分野にコンタクトがある商社の総合性がこの場合の強みとなってくる。

投資会社としての商社の変身もある。商業とは組み合わせである。フォーメイションである。オルガナイザー機能。その中で不足する部品があれバッジ分でそれをつくる。商社の事業会社、投資会社としての性格である。それが隙間を埋めていく。

おわりに

戦後のある機関、大量生産大量流通がもてはやされ、商社の卸売業者としての地位が陳腐化したかのように見えた時期もあった。しかし今や生産車種道の大量生産大量流通の時代は終わった。需要か消費者の意向がもっと前に出てくる時代である。需要家のニーズを仲介する問屋に、古い産業であるが、21世紀再びニーズが増し、問屋が脚光をあびる時代になる。

いい意味での商人に徹して社会に貢献することが大切だろう。

2000年10月1日日曜日

企業と倫理と集団と個人

アリを注意深く観察した人によるとせっせと働いているかに見えるアリの群も本当に働いているアリは全体の2 割にしか過ぎず残りの8 割のアリはほとんどさぼっているとのことだ。全員を働かせようとして働くアリだけの群をつくっても結果は同じ事でその中の8 割がまた怠けはじめるらしい。逆に働かないアリばかりを集めると今度はそのうち2 割が働き出すという。「群」の本能なのであろう。

自然の摂理であるならば人間社会にも当てはまるかも知れない。でも人間はアリより頭がよいのでこの2 割という数字を少しでも引き上げて全体の生産性を上げるべくいろいろ工夫がなされてきた。ひとつのやり方は単なる「群」を組織化し規律を高めひとつの目標に向けて邁進する運命共同体化するものだ。

これはどうも最初はユーラシア大陸の軍隊ではじめられたようで、ローマの亀甲歩兵軍団は、その組織力とチームワークでヨーロッパ全土を制覇した。ベンガルのプラッシーでは、整然と隊伍を組んだイギリス東インド会社軍は、人数は数倍だが烏合の衆に過ぎなかったムガール軍を殲滅しイギリスのインド支配を確実にした。日本においても、個人プレーしかできない鎌倉武士団は集団戦法を採る元軍に全く歯が立たず危うく征服されるところであった。

なぜ組織化された軍隊は強かったのか。国際政治学者の亡き高坂正堯によれば、密集隊形をとる軍隊の強さの秘密は兵士達が決して「大義」などという高尚な目的の為ではなく「肘と肘を付き合わせドラムの響きとともに前進する隣の仲間を裏切らないため」だけに超人的な勇気を発揮するからだそうだ。つまり集団主義のドライビングフォースはまさに組織体と仲間への忠誠であり、それは正義とか倫理などの普遍的な価値観より優先されるということなのである。

ここに問題が生じる。この点をいちはやく指摘したのが夏目漱石である。漱石は「私の個人主義」と題した講演(大正3 年、於学習院)のなかで「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものである」と述べ、人間は集団となるとどうしても徳義心を失いがちであるからこそ個人主義が重要であると説いたのだった。

昨今のたび重なる企業不祥事は社会に企業倫理の問題を提起している。多くの企業でコンプライアンス・システムの制度化が検討されているが、集団の本質に触れた漱石の指摘は傾聴に値するだろう。漱石は続いて、この集団主義と個人主義という二つの主義は矛盾するものではないとも話している。しかし「この点をもっと詳しく述べたいのだが時間がない」とそれ以上は論を進めなかった。その後すぐ漱石は死んでしまったので我々は「もっと詳しく」聴けないままでいる。だから我々は自分たちでこの「解」を見つけるべく努力しなければならない。

(橋本尚幸)